第21回百日連帯共同祈願ミサへの招き
第21回 百日連帯共同祈願ミサへの招き
「この苦難は あなたがたの栄光なのです。(エフェソ3:13b)」
主キリストのうちにある兄弟姉妹の皆様
新春のお慶びを申し上げます。
毎年1月1日「神の母」の祭日に贈られる「世界平和の日」のメッセージ、本年はフランシスコ教皇様の最初のメッセージとして、「平和への道と基盤としての兄弟愛」のテーマで、「喜びと希望に満ちたいのちが与えられるようにお祈り申し上げます」という言葉で始まりました。兄弟愛が不可能なような時代の閉塞状況、「無関心のグローバル化」が蔓延し、他者の苦しみに『慣れ』、自分の内に閉じこもる状況を嘆いて痛んでおられます。しかし、フランシスコ教皇様は、真の牧者キリストの代理者として「さまざまな不平等、貧困、不正の状況は、兄弟愛の深刻な欠如だけでなく、連帯の文化の不在を示しています」そして、「グローバル化はわたしたちを隣同士にはしても、兄弟にはしません」(ベネディクト16世教皇『真理に根ざした愛』19項参照)と現代世界が兄弟姉妹からなる共同体を形成する使命を妨げる問題や理由を数々列挙する立場に留まるのではなく、真に解決の道は、「人々の間の真の兄弟愛は、超越的な父を前提にし、また必要とします。このような父を認めることにより、人々の間の兄弟愛は堅固なものとなり、すべての人は互いのことを心にかける『隣人』となるのです」と平和への道としての兄弟愛の基盤を教会の信仰の立場から明確に明らかにしておられます。その結論では、「わたしたちは兄弟愛を発見し、愛し、体験し、告げ知らせ、あかししなければなりません」と何をあかしすべきかを手短に要約して、神の愛の福音のエッセンスを理解して行い伝えるように私たちを励まされます。
私たちが呼びかけて始めた百日共同祈願は、この教皇様の「キリスト教的連帯」の趣旨に沿って世界の人々のために同じ父を仰ぐ神の兄弟姉妹として執り成すものです。第20回は、わたしの亡き父への感謝とともに兄弟姉妹の生きた家族の模範である聖家族の主日のミサで570名余の奉納者の祈りをささげ100日を終えることができました。この百日の祈りの期間には、大きな災害がフィリピン、レイテ島を襲いました。大地震や巨大な台風です。私たちが一昨年講師としてお迎えしたバート・パスター神父様と契約共同体「神の小さい子供たちの家族」の住まいは、その災害の中心に位置するところにあり、神父様とその共同体の消息を知りたいと手を尽くしても音信不通で梨のつぶてでした。私たちは、その被災地の様子が報道されるにつれて心配が募り、バート神父様の無事を願いつづけました。被災地の方々のために、この苦難の時を救いの秘義として主が用いてお導きくださるように祈り続けました。また、東北の大震災のためにも、祈り続けております。震災直後の帰路心筋梗塞で亡くなられたラシャペル神父様の赴任地塩釜教会を訪問し、塩釜教会の信徒の方から最期の様子をお聞きできたことや、塩釜教会が支援基地として大きな役割を果たしたことなどを伺えたことは、神父様を身近に感じ宣教師の息吹が感じられ大きな慰めと力づけをいただきました。この塩釜教会のボランティア活動のために、百日共同祈願の奉納金の分かち合いとして、200日分66万円を寄付させていただきました。また、福岡でも執り成しの祈りの研修を行い大きな恵みをいただきました。特に、聖霊の歌(創造主である神)が、こころに響き、その後も毎日この聖霊の歌を口ずさんで祈りを始めています。
また、11月には、イスラエル訪問の機会に恵まれました。わたしは聖霊による刷新全国委員の一人として、国際カトリック・カリスマ刷新奉仕団(ローマ事務局、ミッシェル・モーラン会長)主催の「国際預言的協議会(International Prophetic Consultation)」に招かれたのです。この国際的な集いの目的は、2017年に聖霊刷新50周年を迎える金祝のこの機会に全教会的な喜びの祝典とするためには、どのように準備すべきか48か国の全国委員と共に神のみ心を聴くことにありました。全世界の全国委員を聖地ベツレヘムに一堂に集め5日間同じ釜の飯を食べ、みことばを聴き、賛美の祈りを共にし、感謝の祈りに与って同じ一つの契約の民、その預言的な使命に目覚めることが大きな目的であったと思います。エルサレム巡礼の一日は、さらに、参加者全員を一つの心にするのに大きな機会となりました。ゲッセマネの園でパティ・マンスフィールド女史(デュケイン大学での最初の聖霊の洗礼の体験者)の短い黙想の講話があり、その後黙想しながら旧市街の十字架の道行、墳墓教会、巡礼の最後には高間で新約聖書のペンテコステの日と同じ規模の人数で1時間ほどの賛美と異言の祈りをささげました。私自身は、皆様の百日の共同祈願のカードをリュックに担いで歩きました。顧みれば、わたしの叙階30周の恵みの年、司祭職の召命を新たにする機会として、主イエス様がわたしを聖地に招き、ご自分の生涯の最初の場所と最後の場所を案内され、ご自身が歩まれた苦しみの道を示され、労苦する者は私のもとに来なさいと励ましの言葉を受けました。ベツレヘムの宿は、生誕教会の広場に面した、文字通り「飼い葉桶広場ホテル(The Manger Square Hotel)」で、四日間130名の各国の代表が宿泊したのですが、「会議」というよりは、聖霊セミナーのスタイルに近く、インプットと分かち合い、聖体賛美、賛美の祈りと預言的なみことばの分かち合いで飼い葉桶の中にいる幼児のように愛に包まれた日々でした。
この会議で印象深く心に残ったことは、会長のミッシェル・モーラン女史です。彼女は英国人でサッチャー元首相のような容貌で鉄人の感じがしましたが、若い時に聖霊刷新の恵みを受けて優しいご主人とともに小教区に奉仕する契約共同体を創立しました。その共同体は、若者に一時的に共同体の祈りの体験の機会を設け、奉仕のための養成講座を主催して、ある種の修道会のような共同生活しているとこのことでした。彼女の個人的なあかしとして、フランシスコ教皇との個人的な面会の機会があった話をとても興味深く聞きました。第20回共同祈願で触れましたが、9月7日、平和の元后、聖マリアの誕生の前日に教皇様は世界中のカトリック信徒そして善意の人々に「シリアと中近東、そして全世界の平和のための祈りと断食の日」を定めて、呼びかけられましたが、その前日の9月6日金曜日に、バチカンに9月9日午後12時に来るように招かれたのです。ちょうどオーストラリアにいてその知らせが届き、全国大会の講師で大会開始前だったのだそうです。それから大会の講師を務めながらチケットを予約する多忙な時間に追われ、面会の指定時間に間に合うかどうかとても緊張したそうですが、すべての交通機関はスムーズに運行し、最終的に面会の20分前に到着できたことは、まさに主の導きと感じたそうです。肉体的には長旅で疲れていたものの心は本当に喜びで満ち溢れていたとのことです。30分間の教皇様と会見は、本当に親しい昔からの友人のように話しが始まったとのことです。昨年亡くなったグレグ司教の話から始まり、カリスマ刷新との出会いや思い出を分かち合い教皇になってもこれまで通りの友情は変わらないことを表明されとのことです。そして、カンタラメサ神父様を教皇庁の説教師として再任したこと等を話され、2015年に行われる第三回カリスマ刷新国際司祭黙想会には教皇様は協力することを確約されたのです。また、カリスマ刷新は教会に大切な役割を担うことを話され、特に南米のペンテコステ派の人々との関係を良好の保ち、対話を続けたいと話されたとのことです。
実際、南米ではカトリック信者が多数原理主義的なキリスト教へと転向していることが憂慮されているのですが、教皇様自身は、カリスマ刷新に対して好意的で、70年代、80年代、カリスマ刷新は、聖なる典礼とサンバの踊りを混同していると非難したこともあるが、刷新の人々を個人的に知って、彼らの生活から良い実が生まれることを目撃して、刷新に回心し、原理主義に対する歯止めだけでなく、現代のカトリック教会には必要でなくてはならない教会運動だと悟ったとワールドユースデイの後メディアに語っているからです。
ミッシェル会長によれば、教皇様は刷新に好意的だけでなく、内部から個人的にもよく知っておられるので、必要な時には、いつでも電話して相談しなさいといような温かい雰囲気で個人面会は終わったとのことでした。教皇様は、枢機卿の時代、ICCRSのリーダー研修会(LTC)の企画を支援し、ローマではその講師にもなってくださったと事務局のオレステ氏が語ってくださいました。
日本の教会では信じがたいような話かもしれません。でも、教皇様の言葉と行いを見ていると、刷新された人、新しい人の姿が見えてきます。歴代の教皇、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世教皇、そしてフランシスコ教皇様は、聖霊による刷新(カトリック・カリスマ刷新)を第二バチカン公会議の実りとして、また教会刷新の機会として、カトリック教会内の刷新運動として認めてこられたのです。それは、教会憲章第二章神の民についての最初の項目、新しい契約と新しい民の記述、第9項に書かれていることの具体的な実現方法であり、確かな実り豊かなあかしになっているからだと思います。それは、新しい契約とその実現として十字架の贖いと復活により聖霊が信者の心に降り心に神の律法が刻まれた新約の民の誕生の出来事です。「この民の法は、神の子らとしての品位と自由を備え、彼らの心の中には、あたかも神殿の中におけるように、聖霊が住んでいる。この民の法は、キリスト自身がわれわれを愛したように愛せよという新しい掟である(ヨハネ13・34参照)」(教会憲章9項309ページ、後4行、中央協議会改訂公式訳引用)ペンテコステの出来事は、最後の晩餐の約束の成就として、聖霊が降り、使徒たちの上に舌の形で聖霊の賜物が与えられました。その中心は、新しい契約の民には父と子の神の愛が注がれる約束が現在化し、わたしたちの内に聖霊が内在されることです。しかしこのことを自覚できるのは、古い生き方の自分を認めて告白し、聖霊の新たな洗いによって新しい人となる聖霊の洗礼によることです。それは、聖霊によって「イエスを主」と告白し、契約の民としてみことばに聴き従い、みことばが日々の生きる糧となることです。聖霊による刷新はこのことを絶えず自覚し洗礼の約束を更新するために聖霊の洗礼のセミナーを実施します。日々自らを奉献し、感謝と賛美をささげる神の民の喜びの集いが刷新の祈りの集いです。今年の新年の平和へのメッセージの結論には、「神が与えてくださる愛だけが、兄弟愛を受けいれ、完全な形で生きることを可能とします」と述べ、ヨハネの福音13章34節~35節を引用され、「(互いに愛し合う)この福音はすべての人に求めます。さらなる一歩を踏み出しなさい。徹底して共感し、自分から遠く離れた人を含む他者の苦しみと希望に耳を傾け、険しい道を歩みなさい」と教皇様は教会が向かう道をはっきりと示されました。
執り成しの祈りは、教皇様の望みを実行する一つの形であり、キリストの教会の使命そのものであります。さらに執り成しを続けましょう。第21回百日連帯共同祈願ミサは、主の洗礼からいつくしみの主日まで(過越しの三日間と復活主日を除く)の百日間を祈ることにいたしました。日付として2014年1月12日(主の洗礼)から4月27日までです。最終の満願日は、ヨハネ23世教皇とヨハネ・パウロ二世教皇の列聖式が執り行われます。まさに新しい聖霊降臨を教会の上に祈り求め、あたらしい福音宣教への道を示した二人の教皇は聖人の誉れと栄冠を受けるにふさわしい方です。この同じ聖霊の息吹とイニシアチブを日本の教会と各国政府の上に注がれ、平和の道を歩み続けるように祈り求めましょう。祈りは前回と同じ要領で、聖霊の祈りで始め、聖フランシスコの平和の祈りをささげましょう。各意向にはマリアさまとともに執り成しのロザリオをささげましょう。また、まとめに、ファスティナに示された祈りも用いるとよいと思います。(例文に書きました。)
主の公現の祭日に
聖霊による刷新関西委員会委員長
畠 基幸 CP
「この苦難は あなたがたの栄光なのです。(エフェソ3:13b)」
主キリストのうちにある兄弟姉妹の皆様
新春のお慶びを申し上げます。
毎年1月1日「神の母」の祭日に贈られる「世界平和の日」のメッセージ、本年はフランシスコ教皇様の最初のメッセージとして、「平和への道と基盤としての兄弟愛」のテーマで、「喜びと希望に満ちたいのちが与えられるようにお祈り申し上げます」という言葉で始まりました。兄弟愛が不可能なような時代の閉塞状況、「無関心のグローバル化」が蔓延し、他者の苦しみに『慣れ』、自分の内に閉じこもる状況を嘆いて痛んでおられます。しかし、フランシスコ教皇様は、真の牧者キリストの代理者として「さまざまな不平等、貧困、不正の状況は、兄弟愛の深刻な欠如だけでなく、連帯の文化の不在を示しています」そして、「グローバル化はわたしたちを隣同士にはしても、兄弟にはしません」(ベネディクト16世教皇『真理に根ざした愛』19項参照)と現代世界が兄弟姉妹からなる共同体を形成する使命を妨げる問題や理由を数々列挙する立場に留まるのではなく、真に解決の道は、「人々の間の真の兄弟愛は、超越的な父を前提にし、また必要とします。このような父を認めることにより、人々の間の兄弟愛は堅固なものとなり、すべての人は互いのことを心にかける『隣人』となるのです」と平和への道としての兄弟愛の基盤を教会の信仰の立場から明確に明らかにしておられます。その結論では、「わたしたちは兄弟愛を発見し、愛し、体験し、告げ知らせ、あかししなければなりません」と何をあかしすべきかを手短に要約して、神の愛の福音のエッセンスを理解して行い伝えるように私たちを励まされます。
私たちが呼びかけて始めた百日共同祈願は、この教皇様の「キリスト教的連帯」の趣旨に沿って世界の人々のために同じ父を仰ぐ神の兄弟姉妹として執り成すものです。第20回は、わたしの亡き父への感謝とともに兄弟姉妹の生きた家族の模範である聖家族の主日のミサで570名余の奉納者の祈りをささげ100日を終えることができました。この百日の祈りの期間には、大きな災害がフィリピン、レイテ島を襲いました。大地震や巨大な台風です。私たちが一昨年講師としてお迎えしたバート・パスター神父様と契約共同体「神の小さい子供たちの家族」の住まいは、その災害の中心に位置するところにあり、神父様とその共同体の消息を知りたいと手を尽くしても音信不通で梨のつぶてでした。私たちは、その被災地の様子が報道されるにつれて心配が募り、バート神父様の無事を願いつづけました。被災地の方々のために、この苦難の時を救いの秘義として主が用いてお導きくださるように祈り続けました。また、東北の大震災のためにも、祈り続けております。震災直後の帰路心筋梗塞で亡くなられたラシャペル神父様の赴任地塩釜教会を訪問し、塩釜教会の信徒の方から最期の様子をお聞きできたことや、塩釜教会が支援基地として大きな役割を果たしたことなどを伺えたことは、神父様を身近に感じ宣教師の息吹が感じられ大きな慰めと力づけをいただきました。この塩釜教会のボランティア活動のために、百日共同祈願の奉納金の分かち合いとして、200日分66万円を寄付させていただきました。また、福岡でも執り成しの祈りの研修を行い大きな恵みをいただきました。特に、聖霊の歌(創造主である神)が、こころに響き、その後も毎日この聖霊の歌を口ずさんで祈りを始めています。
また、11月には、イスラエル訪問の機会に恵まれました。わたしは聖霊による刷新全国委員の一人として、国際カトリック・カリスマ刷新奉仕団(ローマ事務局、ミッシェル・モーラン会長)主催の「国際預言的協議会(International Prophetic Consultation)」に招かれたのです。この国際的な集いの目的は、2017年に聖霊刷新50周年を迎える金祝のこの機会に全教会的な喜びの祝典とするためには、どのように準備すべきか48か国の全国委員と共に神のみ心を聴くことにありました。全世界の全国委員を聖地ベツレヘムに一堂に集め5日間同じ釜の飯を食べ、みことばを聴き、賛美の祈りを共にし、感謝の祈りに与って同じ一つの契約の民、その預言的な使命に目覚めることが大きな目的であったと思います。エルサレム巡礼の一日は、さらに、参加者全員を一つの心にするのに大きな機会となりました。ゲッセマネの園でパティ・マンスフィールド女史(デュケイン大学での最初の聖霊の洗礼の体験者)の短い黙想の講話があり、その後黙想しながら旧市街の十字架の道行、墳墓教会、巡礼の最後には高間で新約聖書のペンテコステの日と同じ規模の人数で1時間ほどの賛美と異言の祈りをささげました。私自身は、皆様の百日の共同祈願のカードをリュックに担いで歩きました。顧みれば、わたしの叙階30周の恵みの年、司祭職の召命を新たにする機会として、主イエス様がわたしを聖地に招き、ご自分の生涯の最初の場所と最後の場所を案内され、ご自身が歩まれた苦しみの道を示され、労苦する者は私のもとに来なさいと励ましの言葉を受けました。ベツレヘムの宿は、生誕教会の広場に面した、文字通り「飼い葉桶広場ホテル(The Manger Square Hotel)」で、四日間130名の各国の代表が宿泊したのですが、「会議」というよりは、聖霊セミナーのスタイルに近く、インプットと分かち合い、聖体賛美、賛美の祈りと預言的なみことばの分かち合いで飼い葉桶の中にいる幼児のように愛に包まれた日々でした。
この会議で印象深く心に残ったことは、会長のミッシェル・モーラン女史です。彼女は英国人でサッチャー元首相のような容貌で鉄人の感じがしましたが、若い時に聖霊刷新の恵みを受けて優しいご主人とともに小教区に奉仕する契約共同体を創立しました。その共同体は、若者に一時的に共同体の祈りの体験の機会を設け、奉仕のための養成講座を主催して、ある種の修道会のような共同生活しているとこのことでした。彼女の個人的なあかしとして、フランシスコ教皇との個人的な面会の機会があった話をとても興味深く聞きました。第20回共同祈願で触れましたが、9月7日、平和の元后、聖マリアの誕生の前日に教皇様は世界中のカトリック信徒そして善意の人々に「シリアと中近東、そして全世界の平和のための祈りと断食の日」を定めて、呼びかけられましたが、その前日の9月6日金曜日に、バチカンに9月9日午後12時に来るように招かれたのです。ちょうどオーストラリアにいてその知らせが届き、全国大会の講師で大会開始前だったのだそうです。それから大会の講師を務めながらチケットを予約する多忙な時間に追われ、面会の指定時間に間に合うかどうかとても緊張したそうですが、すべての交通機関はスムーズに運行し、最終的に面会の20分前に到着できたことは、まさに主の導きと感じたそうです。肉体的には長旅で疲れていたものの心は本当に喜びで満ち溢れていたとのことです。30分間の教皇様と会見は、本当に親しい昔からの友人のように話しが始まったとのことです。昨年亡くなったグレグ司教の話から始まり、カリスマ刷新との出会いや思い出を分かち合い教皇になってもこれまで通りの友情は変わらないことを表明されとのことです。そして、カンタラメサ神父様を教皇庁の説教師として再任したこと等を話され、2015年に行われる第三回カリスマ刷新国際司祭黙想会には教皇様は協力することを確約されたのです。また、カリスマ刷新は教会に大切な役割を担うことを話され、特に南米のペンテコステ派の人々との関係を良好の保ち、対話を続けたいと話されたとのことです。
実際、南米ではカトリック信者が多数原理主義的なキリスト教へと転向していることが憂慮されているのですが、教皇様自身は、カリスマ刷新に対して好意的で、70年代、80年代、カリスマ刷新は、聖なる典礼とサンバの踊りを混同していると非難したこともあるが、刷新の人々を個人的に知って、彼らの生活から良い実が生まれることを目撃して、刷新に回心し、原理主義に対する歯止めだけでなく、現代のカトリック教会には必要でなくてはならない教会運動だと悟ったとワールドユースデイの後メディアに語っているからです。
ミッシェル会長によれば、教皇様は刷新に好意的だけでなく、内部から個人的にもよく知っておられるので、必要な時には、いつでも電話して相談しなさいといような温かい雰囲気で個人面会は終わったとのことでした。教皇様は、枢機卿の時代、ICCRSのリーダー研修会(LTC)の企画を支援し、ローマではその講師にもなってくださったと事務局のオレステ氏が語ってくださいました。
日本の教会では信じがたいような話かもしれません。でも、教皇様の言葉と行いを見ていると、刷新された人、新しい人の姿が見えてきます。歴代の教皇、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世教皇、そしてフランシスコ教皇様は、聖霊による刷新(カトリック・カリスマ刷新)を第二バチカン公会議の実りとして、また教会刷新の機会として、カトリック教会内の刷新運動として認めてこられたのです。それは、教会憲章第二章神の民についての最初の項目、新しい契約と新しい民の記述、第9項に書かれていることの具体的な実現方法であり、確かな実り豊かなあかしになっているからだと思います。それは、新しい契約とその実現として十字架の贖いと復活により聖霊が信者の心に降り心に神の律法が刻まれた新約の民の誕生の出来事です。「この民の法は、神の子らとしての品位と自由を備え、彼らの心の中には、あたかも神殿の中におけるように、聖霊が住んでいる。この民の法は、キリスト自身がわれわれを愛したように愛せよという新しい掟である(ヨハネ13・34参照)」(教会憲章9項309ページ、後4行、中央協議会改訂公式訳引用)ペンテコステの出来事は、最後の晩餐の約束の成就として、聖霊が降り、使徒たちの上に舌の形で聖霊の賜物が与えられました。その中心は、新しい契約の民には父と子の神の愛が注がれる約束が現在化し、わたしたちの内に聖霊が内在されることです。しかしこのことを自覚できるのは、古い生き方の自分を認めて告白し、聖霊の新たな洗いによって新しい人となる聖霊の洗礼によることです。それは、聖霊によって「イエスを主」と告白し、契約の民としてみことばに聴き従い、みことばが日々の生きる糧となることです。聖霊による刷新はこのことを絶えず自覚し洗礼の約束を更新するために聖霊の洗礼のセミナーを実施します。日々自らを奉献し、感謝と賛美をささげる神の民の喜びの集いが刷新の祈りの集いです。今年の新年の平和へのメッセージの結論には、「神が与えてくださる愛だけが、兄弟愛を受けいれ、完全な形で生きることを可能とします」と述べ、ヨハネの福音13章34節~35節を引用され、「(互いに愛し合う)この福音はすべての人に求めます。さらなる一歩を踏み出しなさい。徹底して共感し、自分から遠く離れた人を含む他者の苦しみと希望に耳を傾け、険しい道を歩みなさい」と教皇様は教会が向かう道をはっきりと示されました。
執り成しの祈りは、教皇様の望みを実行する一つの形であり、キリストの教会の使命そのものであります。さらに執り成しを続けましょう。第21回百日連帯共同祈願ミサは、主の洗礼からいつくしみの主日まで(過越しの三日間と復活主日を除く)の百日間を祈ることにいたしました。日付として2014年1月12日(主の洗礼)から4月27日までです。最終の満願日は、ヨハネ23世教皇とヨハネ・パウロ二世教皇の列聖式が執り行われます。まさに新しい聖霊降臨を教会の上に祈り求め、あたらしい福音宣教への道を示した二人の教皇は聖人の誉れと栄冠を受けるにふさわしい方です。この同じ聖霊の息吹とイニシアチブを日本の教会と各国政府の上に注がれ、平和の道を歩み続けるように祈り求めましょう。祈りは前回と同じ要領で、聖霊の祈りで始め、聖フランシスコの平和の祈りをささげましょう。各意向にはマリアさまとともに執り成しのロザリオをささげましょう。また、まとめに、ファスティナに示された祈りも用いるとよいと思います。(例文に書きました。)
主の公現の祭日に
聖霊による刷新関西委員会委員長
畠 基幸 CP
新年のあいさつを申し上げます。
新年 あけましておめでとうございます。
昨年 父が天に召されましたので 喪中で新年の挨拶を控えるのが普通ですが、わたしにとっては、天の門に入る凱旋の喜びの内に父を見送ったので喪中ではありません。父が通った精華教会で年の瀬、聖家族の祝日の翌日に特に親しかったケアハウス神の園の方々と精華教会の祈りの集いの方々へ父からの感謝と父がお世話になった人々へのお礼の機会を設けて、ご一緒にミサを精華教会でささげました。
これを新年の挨拶といたします。
昨年 父が天に召されましたので 喪中で新年の挨拶を控えるのが普通ですが、わたしにとっては、天の門に入る凱旋の喜びの内に父を見送ったので喪中ではありません。父が通った精華教会で年の瀬、聖家族の祝日の翌日に特に親しかったケアハウス神の園の方々と精華教会の祈りの集いの方々へ父からの感謝と父がお世話になった人々へのお礼の機会を設けて、ご一緒にミサを精華教会でささげました。
これを新年の挨拶といたします。
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