マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 右近巡礼 ー高槻教会ー

読売新聞 12月3日夕刊に右近列福運動の動きを報道する囲み記事がでました。ちょうど日生中央教会コルベ信徒会恒例の秋の行事、11月9日(土)に高槻教会と玉造教会への巡礼を行ったところ読売新聞の記者が取材にきて、右近像を囲んで説明を受ける写真だけを掲載するのでということで被写体になった写真が公開された。

 記事の内容は 右近殿を聖人にする運動を取材したものですが、聖人になる奇跡が見つかっていないので、奇跡の証明が求められず国内で崇敬される「福者」に認定してもらうという記述は、間違いです。 奇跡の証明がもとめられないのは殉教者で、高山右近も殉教者として列福されるように申請したというのが実情で、血を流さないのに殉教といえるかという点で、その生涯が教えに従った生き方であったためにマニラに追放されて死んだということで、白い殉教といえるのが教会の受け止め方です。通常、福者になるにも 奇跡が一つ必要という基準がありますから記事はすこし記者の理解(取材)不足かなということも感じました。

記事のJPGファイルを添付します。右近読売記事

 ベトレヘムにて 

2013年11月14日
ベトレヘムでの会議ためイスラエルまで行ってきました。この会議はICCRS(国際カトリック・カリスマ刷新奉仕会)の「国際的預言諮問会議ーInternational Prophetic Consultation」(14~18 November 2013, Bethlehem, Holy Land )で、世界中のカトリック・カリスマ刷新の全国委員会のメンバーが集まって、1967年にアメリカのジュケイン大学から始まった聖霊による刷新の始まりから50周年を祝う準備のため、基本的な方針を討議するために集まりました。 

 主に 2012年~2013年 ローマ人への手紙 12章1節~2節 (あかし)

     {2012年WYDの青年たちの参加、2013年 エルサレム(今回)}

    2014年~2015年 ティモテ第一の手紙 1章6節~7節 (交わり)

     {2014年 ウガンダ国際大会、2015年 司祭黙想会 ローマ}

    2016年~2017年 ルカ 4章18節~19節 金祝 ローマ(奉仕)

 の段階で進めていくことになります。 2017年の50周年はローマでの金祝は、盛大なものとなることでしょう。司祭黙想会も2014年に予定されているので、日本からも多くの司祭を招いて ぜひとも参加したいと思います。 


 始まり
 誕生教会の新しい聖堂で会議の始まりにミサが行われました。日本からの参加者 前列2人と最後列1人、そして私の4名が参加しました。

 第20回百日連帯共同祈願ミサ

第20回 百日連帯共同祈願ミサへの招き


 「平和を実現する人々は、幸いである。その人々は神の子と呼ばれる」
                       (マタイ5章9節)
 亡き父ヨセフ畠良一の思い出に

第19回百日連帯共同祈願は聖霊降臨の日から始めて第19回聖霊による刷新全国大会三日目8月26日まで100日間続けられました。そして、参加者の一人91歳の私の父は、翌日平和のうちに静かに御父のみもとに旅立ちました。息子の私を応援するために、第一回目の共同祈願から参加し、次第に衰える心身の中でも、最期まで祈り続けてくれたのです。今回の共同祈願の参加者は515人と激減しましたが、池田教会では、奇跡的な事が起こり始めました。一つは40代の女性で自動車に撥ねられて前輪と後輪にひかれましたが、骨一つ折れずに命が救われたことと、もう一つは、脳腫瘍で手術をしなければ余命一か月と宣告された人が、手術を受けると腫瘍は発見されず、手術後の集中治療室では、十字架のイエスが彼女の体に入り、病院の中を歩き続ける夢を見たのでした。彼女の証言では、その後、渇くという叫びとともに目覚め、気づくと痛みはなくなり元気が回復したとのことです。アレルヤ、神に感謝!

ちょうどそれらの奇跡が起こったころ、わたしは黙想会を指導しており、これまで聖母マリアについて黙想の題材としたことがなかったので、マリアさまに関する資料を集め、考察していたところでした。そして黙想会で思い出したことは、神学生の時、父が狭心症になり、いつ発作が起こって心筋梗塞を起こし死に至るかわからないと医者から告げられても、父は頑なに入院を拒否しているとの母の報告でした。その報告を聞いた夜、わたしは心配で眠れなくなり、夜通しロザリオの祈りを唱え続けていると明け方、父の後ろに立っているマリアさまのビジョンを見たのです。そして、瞬間的に何とも言えぬ平安が訪れたことがありました。その後、わたしの説得で父は三か月入院し、元気を回復し心臓は癒されました。父をこんな病気にさせたのは、わたしが大学卒業後父には相談せず修道会に入り、父の全く知らない世界に行ってしまったさびしい思いをさせたことが原因でした。息子を取られたと話すのが口癖になり、ついに生きる意欲まで奪っていたのでした。その父をマリアさまが助けてくださったのです。明日にも死ぬかもしれないと医者に驚かされた父が、その後35年も生きたのですから。・・・

父の思い出を語らせてください。父は幼少で両親に死別し、親族から邪魔者扱いを受け、小学校の勉強も十分させてもらえませんでした。親もなく、学歴もなく、ツテもコネもなく、身一つで、戦前、戦中、戦後をがむしゃらに生き働いてきた父は、母と結婚するまで人間らしい生活をしたことがなかったと述懐していました。結婚しない道を選んだわたしに父は、人間として成熟する機会を失ったので残念だ、それでもよいのか、自分で選んだ道は途中でやめてはいけないのだぞと諭しました。司祭職への道を反対したのではなく、親心から言ってくれたのでした。その父に危機が訪れたのは、母の死の時でした。広島で被爆した母は、何度か大病しては病を克服し、その後父と二人で牛乳配達店を営み、息子二人を大学まで行かせてくれました。癌を患って牛乳店を廃業したのち、晩年の12年間は京都教区の司教館で奉仕した後、気管支の癌で亡くなりました。苦労を共にした母を失うことは父には耐えられない悲しみだったので、すぐに後から行くからなと声をかけていました。その父が、母の一番喜ぶことは、自分が洗礼を受けることだと思うに至り洗礼を望みました。河原町教会で教理を即席で学んだあと、四旬節の主日の日でしたが、奇しくも2月11日のルルドの聖母の記念日に重なり洗礼を私から受けました。

母が亡くなると、茫然自失だった父は、身寄りのないことがどれほどつらかったかを思い、兄と私のために、存在すること、母がしていた家族のための祈りを継続することを自分の本分としました。61歳から79歳までメインテナンス会社に勤め、癌で職を辞し「ケアハウス神の園」に入居しました。79歳から91歳まで会社勤務でのノウハウを生かしたボランティア活動や教会のミサや黙想会にも参加し、信者生活を教わりながら「司祭の父」としての緊張と誇りをもって日々を過ごしていました。12年間で肺がん、喉頭がん、胃がん、前立腺がん、膀胱がんと何度も闘病生活をしましたが、「渡る世間に鬼はいない」は、晩年の父の口癖となり、職員や園の入居者たちとの家族的な交わりを楽しみ喜んでいました。昨年の暮れから膀胱がん悪化し、入退院を繰り返しましたが、来るべき時が来ました。「こんなに愛されて幸せな男はない」。細かいことはわからないが、すべて赦してほしいと願ったので、赦しの秘跡と全免償を授け、臨終の最期の秘跡、病者の塗油とご聖体の秘跡を授けました。別れ際に父の手にキスをしました。今思い起こすと、父ヨセフの労働の手にイエスさまが祝福されたのだと悟りました。父への感謝の最大の祝福だったと思うと心からの喜び、愛、平和、感謝があふれてきました。そして、全国大会の準備と大会に没頭しているわたしには、何の不安もなくすべてをマリアさまにゆだねることができました。35年前に父の傍らにおられたマリアさまは、あの時から、父の幸せな死を準備し、聖家族の一員として永遠の宴に招かれたのだと思えるのです。
聖母マリアさまは、どれほどこの小さな家族に憐みの目を注いで導かれていたか、そして、司祭のわたしが一年に一日か二日しか過ごせなかった母や父の寂しさやわたしの親不孝を補って余りあるほどの愛を注いでくださったのです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない(ルカ9・62)」とイエスさまは弟子には厳しいのですが、わたしの修道生活、司祭職を喜んで歩めるように、マリアさまが救い主の母として、どんなにかわたしの母や父のことをいたわり幸せな生涯を全うできるように見守り、逆境の時、病気の時、そして死を迎えるときに執り成してくださったのか思い起こせます。

そうです。百日の共同祈願は、まさに救い主母マリアの「とりなしの祈り」です。イエスの憐みの心により頼む祈りです。すべては御父が愛されるものの死を、病を、苦しみを、痛みを、そのままにしておけない、無関心ではいられない祈りです。教皇様は、「私の心を痛め悩ませる多くの争いがこの世界にありますが、最近特に心を痛めるのは今シリアで起こっている問題です」と、9月7日(平和の元后・聖マリアの誕生の前日)に「シリアと中近東、そして全世界の平和のための祈りと断食の日」として共に祈るようにと信者に檄を飛ばされました。その日、10万人の人々が教皇様とともに祈りと償いの心をもってサンピエトロ広場で共に祈りました。私たちもまた報せを受けたのが遅かったけれども何らかの形で祈りに参加しました。教皇様は「地上の平和」の回勅を書かれた教皇ヨハネ23世に言及して言われます。「この世界に平和が実現するためにわたしたちは何ができるでしょうか? 教皇ヨハネ23世が言われたように、一人ひとりの人間が正義と愛の導きのもとに、人間社会の中に新しい関係を築き上げることです。すべての善意の人には平和を追求する義務があります」。

わたしたち一人ひとりは小さい者ですが、「わたしが愛したように、互いに愛しなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる(ヨハネ13:34~35)」と遺言されたイエスの新しい契約(絆)に生きる仲間たちが世界中にいることに励まされます。教皇様は若者たちに語りかけられたように、わたしたちにも話しかけられました。「今日わたしは、世界中の人々の、一人ひとりの心から立ち上がる叫び声に、人類の大家族から立ち上がる叫び声に、私の声を合わせたいと思います。平和を求める叫びです。・・・二度と戦争をするな!戦争はもうたくさんだ!という叫びです。平和は貴重な賜物です、大事に守り育てなければならないものです」。

わたしたちも勇気をもって叫びましょう。第20回百日連帯共同祈願ミサを、教皇様の意向とともに、「平和のための祈り」として新しい聖霊降臨を願い求めて共に祈りましょう。今回は、9月21日マタイ福音記者の祝日より12月29日聖家族の祝日までの100日間を祈ります。毎日ミサで皆様の祈りを奉納します。
 
 第20回百日連帯共同祈願ミサ
9月21日 ~ 12月29日 (百日間)
聖霊 来てください。
  ✚ 平和を求める祈り(アシジのフランシスコ)
  わたしを あなたの平和の道具としてお使いください。
  憎しみのあるところに 愛を
  いさかいのあるところに ゆるしを
  分裂のあるところに 一致を
  疑惑のあるところに 信仰を
  誤っているところに 真理を
  絶望のあるところに 希望を
  闇に光を 悲しみのあるところに
  喜びをもたらすものとしてください
  慰められるよりは 慰めることを
  理解されるよりは 理解することを
  愛されるよりは 愛することを
  わたしが求めますように
  わたしたちは与えるから受け ゆるすからゆるされ
  自分を捨てて死に
  永遠の生命をいただくのですから
 聖母マリアのとりなしを願って
 ロザリオの祈り この一連をささげましょう。
1、 教皇の意向を祈る。
2、 聖霊による刷新の意向
3、 各自の共同体の意向
4、 自分の意向
5、 平和のための意向

結び:栄光は父と子と聖霊に はじめのように今もいつも世々に アーメン

 祝叙階三十周年 
 聖霊による刷新関西委員会 委員長 畠 基幸 神父
 (2013年9月14日発送)

 二つの奇跡

暑さの中 病人・高齢者の方々に大きな慰めと力づけが与えられますように祈ります。被昇天(8月15日)まえの9日間の祈りが8月6日から始まりました。ちょうど平和旬間とも日程が重なります。
 この期間 祈りが豊かな実りをもたらす時期でもあります。
 昨日 フィリピン人のビッキーさんにご聖体を持っていきました。脳腫瘍で今年1月に手術されましたが、腫瘍がとりきれず、細かい腫瘍が残り放射線治療をされていましたが、効果はなく再び 大きな腫瘍に増大し手術しなければ余命一か月、しても六カ月の余命と診断されました。手術をするかどうか難しい決断でしたが、手術をすることになり、7月29日に手術したところ、大きな腫瘍は消えており、小さな腫瘍を取り去るだけで手術が終わりました。奇跡が起こらなければ助からないと医者に言われたので、友人・知人、私や私が知るカリスマ刷新のフィリピンの全国会長バート神父に手術当日ミサを同時にささげることをお願いしました。そして開頭したところ前述のようになかったのです。数日前に家族に説明されたCTスキャンにあった腫瘍が消えている。家族は奇跡を信じました。アレルヤ 神に感謝!

 それだけでなく、ICUにいる間に ビッキーさんは神秘的な体験をして、イエスと共に十字架の道を歩き、十字架上でビッキーさんはイエスになったようにイエスと同じ苦しみと渇きを感じ、渇くと叫び、そして光が彼女を貫き、激しい痛みを感じた。そして、痛みが消えるとともにICUの中で目覚めて歩けるようになったというのです。すごいですね・・・ 池田教会にも奇跡が続きます。

 同じころ Kさんの娘さんが自宅前で自動車にはねられ車の前輪と後輪にひかれ、救急車に運ばれました。骨が折れ内臓破裂のケースでしたが、胸の骨もおれず内臓にも何のダメージもありませんでした。お母さんは感謝のためにミサにこられました。奇跡としかいいようがないと。ご主人の天でのとりなしがあったのでしょうとお伝えしました。というのも、私の母が亡くなった後、父も兄も交通事故に会いましたが、不思議と大きな怪我にならないで助かったので、その時、二人とも母のことを思い浮かべました。

 わたしの父は今弱ってきています。昔、わたしが神学生のころ、父が狭心症になって、このまま放置すると心筋梗塞になるので入院するようにとのことでしたが入院を断った父のことを哀れに思った母が泣いているところに私が電話をちょうどタイミングよく、ほとんど電話しないのにしたのでその時何らかの理由で母に電話したのでした。母に電話したのはこの一回だけかも知れません
。それほどわたしは親不孝者でさびしい思いを母や父にさせましたが、修道会に入会して有頂天になっていたのでしょう。奉献したという理由で両親の思いはあまり考えたこともありませんでした。そのためでしょうか、わたしは心が騒ぎ、その夜寝れなくなり、ロザリオの祈りを夜中ずっとささげて明け方頃、うとうとしたときにマリアさまが夢に現れ、父のそばに立ったのを見ました。その瞬間、不安が消えたのです。ちょうど台風が関西に来ていましたが、その風雨の中、京都に帰り、父に入院を薦めました。父はわたしの言葉を受け入れ、それから3か月入院し、その後狭心症も起こらず、それから35年、91歳の今日までいくつもの癌と闘いながら生きてきました。


 天でのとりなしは 母マリアの祈りがあります。

 祈りは聞かれるのです。 私たちが神の言葉を聴くものとなるように信仰の賜物が与えられるのです。わたしの母は広島で被爆し、その後原爆症で様々な疾患と闘いながら73歳で帰天しましたが、何度もいのちの危機を救われた体験を持っています。母が60歳でわたしは助祭だったときは、子宮がんで入院し進行性の癌と肉腫で末期の手遅れと判断され余命3か月と言われました。わたしは知り合いのあらゆる神父さんや信者さんに祈りをお願いしました。わたしの叙階の前の年も、その前の年も司祭候補者の母が天に召されるということが起こっていました。
 それで、わたしは主にこんなことが許されていいのかと訴えて、神学部の教授や霊性の高い評判の信者、修道者、司祭に頭をさげてお願いしました。お願いするというのは、自分をへりくだらさせなければなりません。人間のちからではどうにもならないことに対して、愛のある神、主イエスにお願いするしかないのです。9時間に及ぶ手術は成功し、抗がん剤治療で6カ月入院し回復しました。

 その時も、ロザリオの祈りをささげ続けて、手術室から天使たちの歌声が聞こえるように感じました。母が手術室から出てきたときには、医者も看護婦も勝利の凱旋門を通る誇らしい戦士のように感じたので、わたしは手術が成功したことを確信しました。
 
 何事であれ 願いと祈りをあきらめないことですね・・・
 最近では、何人かの信者さんがイエスは立派な人間として尊敬するが、神として信じないと仰り、公然と教会から離れていく人がいますが、イエスは神(主)であるのは信仰告白のかなめです。せっかく信仰しても祈りが単なる儀式と道徳の形としか受けとめないのであれば、生きている復活されたイエスの愛と真実を体験できないとは当然なのかもしれません。謙遜に祈ることこそ 主が聴いてくださる祈りでしょう。何よりも主イエスの御父にたいする懇願の祈りに参加することになるのですから・・・
 
 アーメン アレルヤ 主に賛美します。主よ、あなたの栄光をたたえます!

 福者ペトロ岐部司祭と187殉教者記念日(7月1日)

午後2時 ~ 4時は サクラ ファミリアで 千提寺キリシタン墓地発掘報告がありましたが、午前中で終わると予定した仕事が終わらなくて 5時までかかってしまったので出かけられませんでした。染野神父が参加できたので、細かいことは神父さんに聞いてください。会場には100名位集まったようです。発掘の報告なので事実の確認ということが主なことでしたでしょう。 

 ところで、今日(7月1日)は、福者ペトロ岐部と187殉教者の
記念日で、大阪教区では 毎年 8地区の一つの地区で祈りの集いをします。今晩は、北摂地区での開催となり、会場は池田教会でしたが、北摂地区評議会の委員は誰一人参加せず、祈り推進チームのスタッフ松本さんと泉水さん、それに池田教会の染野神父(地区長)、それに池田教会の信徒2名と豊中教会の信徒1名でした。
夜7時から8時まで行われ、スタッフ2名 池田教会司祭 2名 池田教会信徒 2名 豊中教会 1名で計7名で行いました。40名位を期待していたのですが夜の集会はほぼ池田小教区ではほとんど集まりがない状態なので、案の定、集まらなかったです。

 高山右近のことも意識しての祈りでしたが・・・ 
 どちらにしても、お知らせはしても強引にお誘いすることはしないので
 だいたい集まりは低調です。もちろん内容が悪いからではなくて、とても
 よく準備された構成で じっくり1時間必要なものです。 あとは人数が
 いて 朗読者や演奏者がいれば きっと参加型の実体験ができると思います。 

 祈りの体験は自ら求める人に与えられことが多いように思います。そして祈りの体験は強制されれば、もう祈りではなくなります。

 1603年~1639年に日本の各地で殉教した人々を列福した。列福式は2008年11月24日、長崎で行われました。まだDVDが残っています。欲しい方には、簡略版ですが 無料で差し上げます。 ご連絡ください。

 ワールド ユース ディ 7月 23日 ~28日

大阪教区北摂地区からは リオデジャネイロで開かれる ワールド ユースへの参加者は誰もいないということです。残念ですが、夏休み直前の試験期間に重なるということで希望者がみな辞退しました。それに費用も時間もかかりすぎることが敬遠されたかもしれません。世界最大のカトリック人口国、ブラジル。わたしは修道会の会議でブラジルのサンパウロまで旅行したことがありますが、24時間のずれというか24時間飛行時間があって、8時に出発して8時に到着したので時計の針を変更する必要がなかったことが最初の驚きでした。

013年 ワールドユースデー ブラジル (7月23日 -28日)
リオデジャネイロ大会   Clique abaixo pra ver

名古屋教区の青年たちの研修会(3月9日)多治見研修センターへの参加募集の動画広告でした。日本語になおして歌っているところが すごな と思いました。 
JMJ Rio 2013 Hino versão japonesa - YouTube 
http://youtu.be/mPIJqwEZ3ZE
(日本語でWYDの大会を宣伝した動画を信者さんから入手しました。)

ポルトガル語  
Hino Oficial JMJ Rio2013 "Esperança do Amanhecer" - YouTube

英語
WYD Rio2013 English Anthem - YouTube

ワールドユースデーのための祈り

父である神よ、あなたは この世が 救われる為に、あなたの独り子の御子を 送って下さいました。

あなたが、男女を選ばれ、御子によって、御子と共に、御子の内に すべての国々に良い知らせを 伝えるために。

教会が必要としている第三千年紀期に、聖霊の力によってすべての若者たちが、喜びに輝く宣教師となる恵みをお与え下さい。

人類の贖い主であるキリスト、コルコバードの山の上に 立てられているキリス像は、腕を開いています。それは、あなたの御手によって、すべての民を受け入れて下さるという意味です。

あなたは、いけにえの捧げものとして、聖霊の力により、私達を父との交わりに導いてくださいました。ご聖体で養われる若者達は、み言葉によって、あなたのみ声を聞き、そして兄弟姉妹との出会いによりあなたを感じることができます。

世に出かけていく宣教師、あなたの弟子として、福音宣教を行うために、あなたの限りない慈しみの助けが必要です。

父である神と御子の愛の交わりにおられる聖霊、燃えるようなあなたの愛と、輝く真理によって、すべての若者の上にあなたの光を送って下さい。ワールドユースデーに参加し、その体験により、世界中に信仰と希望と愛を伝えることができますように。

命の文化と平和を目指しながら、素晴らしい世界を作り上げていくことができますように導いて下さい。アーメン

 第19回百日間連帯共同祈願

5月19日(聖霊降臨の主日)から8月26日までの100日間を共に連帯して祈るように呼びかけました。長い文章になりましたがご賛同くだされば、ご一緒に100日間祈りませんか。どんな祈りでも結構です。同じ祈りをしたいと望まれる方には、「聖霊による刷新」の祈り会の人たちと共にするとりなしの祈りをお祈りください。「はがき文」にしてあります。私宛にお送りくだされば、毎日のミサの奉納にあなたから拝受した祈りカード(はがき)をおささげします。

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第19回 百日間連帯共同祈願への招き

新しい聖霊降臨の恵みを願って

兄弟姉妹のみなさま 
聖霊降臨祭 おめでとうございます。
ノベナ(9日間)の特別な執り成しの祈りのこの時、みなさまにごあいさつ申し上げます。5月12日昇天祭に<母の日>を迎え、すべての命の母の尊い使命を思い、特別にいつくしみ深い主に祈りを捧げてこのメッセージを送ります。

第18回百日共同祈願は、4月28日に終わりました。635名の参加者がありました。この百日の期間には、名誉教皇ベネディクト16世からフランシスコ教皇への教皇職交代の歴史的な出来事が起こりました。退位表明から世界中の教会に祈りの輪が広がり、世界中のメディアが注目し、さまざまな憶測が飛び交う中、新教皇が誕生しました。そして、わたしたちは、新教皇様がフランシスコの名を選ばれたと聞き、喜び踊りました。これこそわたしたちの祈りに応えられる聖霊のみ業なのだと信じられるからです。

聖霊による教会の刷新と聖フランシスコのビジョンには霊的な類似性が豊かにあります。シリル・ジョン氏はカリスインディアの2006年1月号の記事の中で、アシジの聖フランシスコの特別な使命とカリスマ刷新の召命と使命についてのご自身の洞察を次のように書いておられました。
 「インドの第13回CCR全国大会のために全国奉仕チームが祈っていたときに、主は私たちに『キリストの体を建てよ』というテーマを与えてくださいました。問題は、私たちが教会に深く根ざしていないならば、キリストの体を建てることができるかということです。フランシスコがサン・ダミアノの十字架上のイエスから聞いたことは、『キリストの教会を放棄する』とか『他の教会を設立する』ではなくて、『わたしの教会を修復する』ことでした。そしてフランシスコはそれを唯一の仕方で成し遂げました。その仕方は一回に一つの石を、自分自身の生涯や彼の個人的なあかしによって変えられた者たちの生涯をもって、積み上げるということです。彼は深く教会のうちに根ざしていたので、その教会を修復できたのです。さて、私たちはどうでしょうか。
 刷新にかかわる私たちは、『主の教会を修復し』し、『ラテランの崩れかけた壁をくい止める』ために呼ばれています。私たちの腕は、教会の裂け目を修復するためにあります。私たちの肩は、教会の傾きをくい止めるためにあります。聖霊の満たしは、『ペンテコステの恵み』の具体的な体験であり、それによって聖霊の働きが個人や信仰共同体の生活における経験された現実となります。『霊の注ぎ』は、教会を生ける体として再発見することを伴います。それは私たちに、キリストの体のある部分が病み、弱まり、不能になっていることを実感させます。しかし、そのことは私たちをつまずかせるのではなく、愛と憐みを私たちに満たしてくれるのです。教会への新たな愛と感覚は、それを経験した多くの者を、もっともっと教会に奉仕したいという刷新された要求へと導きます。多くの者にとって、『わが母である教会の核心においてこそ私は愛となります』というリジューの聖テレーズの言葉が新しい意味を帯びてきました。
 聖霊の満たしの明らかな実りの一つは、キリストの生ける体としての教会の再発見です。教会への新たな愛と感覚は、満たしを経験した多くの者を、キリストの体との交わりのうちにいたいという刷新された要求へと導きます。キリストの弟子たちを、ご自分の名において、ご自分の権威において、この世における御業を教会として続行するために派遣されましたが、私たちが今日でもイエスについて語ることができるのは、教会をとおしてのみ可能なのです。」

「新しい福音宣教」が、信仰年の主要なテーマであることが明らかになってきました。その初穂のような教皇フランシスコの姿は、硬直化した教皇庁や教会位階制に聖霊の息吹を吹き込み、貧しい人の側に立つ姿を示されました。これは、福音の原点に戻り、御父の愛をあかししたイエスの姿にならい、私たちも同じようにイエスの愛を生涯あかしするならば、教会を修復することになるという教皇様の模範だと思います。シリル・ジョン氏の情報によれば、教皇様はブエノスアイレスの大司教として「聖霊による刷新」やエキメニカル運動にも積極的にかかわり、ICCRS(国際聖霊刷新奉仕団)のメンバーとも親密な交流があるということです。2005年以降私たちが尼崎の大会に招いたラニエロ・カンタラメサ神父様(教皇庁説教師、歴代の教皇の聴罪司祭)、故ルフス神父様、ホワイト・ヘッド夫妻を、教皇様も同じ時期アルゼンチンに招き、聖霊による刷新の大会を行い、熱心に聖霊の満たしを願われたことを知りました。教皇になって最初に参列者からの祝福の祈りを願われたことが話題になりましたが、教皇様にとってはごく当たり前のことだったのです。教皇様は、まさに聖霊の満たしを受けて刷新された人なのです。その観点から見ると、教皇様の言動もなるほどと親近感がわいてきます。

さて、私たちは、主が弟子たちに約束されたように、みなしごではなく(ヨハネ14:18~19)、聖霊の豊かな導き、多くの優れた模範に恵まれています。そして、何よりも父の右の座にあって主イエスがわたしたちのために執り成してくださっているので、私たちは聖霊に満たされれば満たされるほど、一つのキリストの体として、キリストの体の傷を意識するようになります。シリルさんの記事の下線部分に注目しましょう。これは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1・24)」という聖パウロの言葉が、真実味を帯びて私たちの身近に迫ってくるように思います。同時に、私たちの生温い信仰生活を悔い改めさせ、霊的な重荷をもって祈る生き生きとした信仰感覚が生まれます。「わたしの小さな子らよ、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラテヤ4・9)」これは、苦しむ人々との連帯を意識すると同時に神の心にかかっている重荷と一致しなければならないことをシリルさんに教えられました。(「執り成しの教本」シリル・ジョン著「預言的な執り成し」p54~55)「執り成しの成功は、私たちが執り成すものが神によって指定されたものであるか、それとも、私たち自身の選択によるものであるかという、執り成しの源泉にかかっているのです。」(同書、p55)

今日(5月13日)は、ファチマの聖母の記念日ですが、ポルトガルのファチマにご出現されたマリア様は、罪びとの回心のために祈るように3人の牧童に告げられました。ルルドにおいても、ガダルペにおいても、秋田の聖母においても、罪びとの回心を祈ることを願っておられます。そして聖ファスティナ(いつくしみの主日)や聖ジェンマ(5月16日記念日)に出現されたイエスさまも罪びとの回心を祈ることを願っておられます。福音書において、復活されたイエスさまが聖トマスに告げられたことが記されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」。これは、イエスさまの心にかかっているもっとも大きな重荷でした。自分の愛する弟子たちが離反することです。だから、聖トマのためにイエスは現れてご自身の傷を示されたのです。これは一匹の迷子の羊ために示される主のあわれみの心です。どれほど主は一人一人を大切にし、配慮されるのかがわかります。

そのためか、聖霊に満たされた私たちは、もはや私たちと共に主の食卓に与らない友のために祈るようにと促されます。「わたしの信じていた親しい友、パンを分け合った友が、わたしを裏切った」(詩編41:10「教会の祈り」第一金晩課)のですが、この苦しみの中で、ご自分を罪の贖いとしていけにえの子羊となってくださった主の愛を無視することが、どれほど主イエスを悲しませていることか、主にとって過酷な心の負担であることか?たとえば、どの教会でも、信者総数の5分の一しか日曜日に来なくなっているとある司教様がある場で発言されたことがありましたが、それをどう受け止めていいのか。私自身は司牧者として、信仰共同体への非難よりも落胆と自虐的に自分の無能さを感じて、反省の材料になっています。それは、私の信仰の傷のようにうずくのです。信じない者となった信者の群れがキリストの体の傷として痛まないわけはないのです。そのために、「新しい福音宣教」は、教会の中で洗礼の恵みをうけてもキリストと共に歩み成長する信仰生活の意味を見失った人々への取り組みであり、1967年に始まるカトリック・カリスマ刷新(「聖霊による刷新」)の働きは、聖霊のイニシアチブの下に始まる「新しい福音宣教」、つまり「新しい聖霊降臨」として「聖霊の洗礼」が信仰を復活させる大きな恵みとなることを証言してきました。
 だから、その希望のうちに友のために悔い改め、また主のためにまた私たち自身のために教会の一致と和解を執り成す祈りを始めましょう。

 「第19回百日連帯共同祈願」と今回は「連帯」という言葉を入れました。キリストの苦しみに結ばれ、キリストの苦しみの欠けたところを「連帯」して自分の事として祈ることを決意すると同時に世界中の、そして同時に日本中の「執り成し人」のネットワークとも「連帯」して祈ることを考えました。十字架の縦木と横木です。主と結ばれ、隣人と結ばれ同じ主のからだとして十字架の木になるということです。こうして、私たちはキリストの生けるいけにえとして毎日のミサでささげられるのです。(ローマ12:1~2)今回は、聖霊降臨祭(5月19日)から8月26日までの百日間を祈ります。

★はがき文の祈りカード(ここをクリック)を送ってくだされば、毎日ミサに祈りのはがきのカードを納めた籠を奉納の時に奉げます。
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 黙想 イエスのまなざし <百日共同祈願>

第18回百日共同祈願が無事終わりました。
最終日は、北摂東、西ブロックの5小教区の評議員研修会と重なり、司式ができませんでしたが、その分 心の中の意向は百日間の感謝の祈りをささげました。この100日間のなかで 教皇の交代があり、新教皇がフランシスコと名乗り、教会の刷新と信仰の再建に立ち向かう姿勢が鮮明になりました。さらにわたしたちも祈りをもって支え続けましょう。次回は聖霊降臨から100日間の祈りをささげます。全国大会(8月25日、26日、27日)の三日間です。シリルさんとベンジャミンさんという二人の協力で実現します。準備の祈りを捧げましょう。

 今日はようやく時間ができたので、「イエスのまなざし」の訳文をすこし直して、スライドにして黙想ができないか試作品を作ってみました。いつも実験的なもので瞬間的に制作するので評価には値しないものですが、いつか 完成品にして多くの教会やグループでも使えるような音楽と画像を使った黙想の材料を作りたいと思っています。

YouTubeにアップロードしています。

 

 Propheic message of election for Pope

ウオード神父さんのクリスマスのメッセ―ジは教皇フランシスコをあらかじめ予想したような内容でした。日生中央の会報にも掲載されましたが、写真が見にくいのでこちらに 英文のPDFファイルを掲載します。 

 JJXMAS2012

 召命推進チーム研修会(昨年10月20日)

昨年のことですが、写真をカメラからコンピュータに保存したまではよかったのですが、どこへ仕舞い込んだか記憶がなくなりました。というのもそこのころからコンピュータがあれこれ狂い始めて、立ち上がっては立ち止まりでついにあきらていました。でも この4月になって意欲が戻ってきて あれこれコンピュータの修理に挑戦しています。VISTAは、あまりよくないですね・・・ しかしXPは来年からサポートしてくれないので、ウィルスにさらされるというし・・ あれこれ探しているうちに見失った写真画像を発見しました。そこで失われないうちに そして記憶を新たにして、みなさまと共有しておけば、コンピュータがダウンしてもみなさまの心に残るという究極のクラウドということで、時季外れですがアップロードしたというわけです。(前回までの説明はコンピュータに感染した写真というような印象を与えてしまいました。それでほとんどアクセスがありませんでした。)

Youtubeに直接アクセスすには、paulhata をYoutubeの検索でpaulhataとうてはわたしのページにつながります。



召命推進チームは、大阪教区の担当司祭松浦謙神父を中心に係りに任命された司祭・修道者で構成されています。また若い青年カップルにも声をかけて手伝ってもらいます。青年たちの召命を司祭・修道者の召命に限定しないで、まず神からの呼びかけに耳を傾けて人生を考える信仰者としての生き方を模索してほしいからです。同じ世代の青年たちと分かち合い、将来をどうするかの道を祈りながら選ぶ機会となればと願います。
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